先日、ネットで「102歳女性「点滴を断固拒否」で迎えた意外な最期」を読みました。
*新著『ねこマンガ 在宅医たんぽぽ先生物語 さいごはおうちで』 著者:永井康徳
私の祖父は72才で亡くなりました。
私の身内でただ一人だけ「畳の上で死ねた人」です。
今では本人や家族が望んでもなかなか叶えられない場合が多いと聞いています。
先日、遠方の友人のおじい様が亡くなったことを教えていただいたときも、おじい様本人は生前、帰宅を希望されていて、ご家族も同意していたけれども叶わなかったとメールで教えてくれました。
今では「胃瘻は避けたい」とか、「あらゆる延命措置を希望しない」という切実な希望は叶えられない現実を目の当たりにすることが多いです。
大上段に構えて「尊厳死」について書きたいのではありません。
個人的に思うこと、経験したことを書きたいと思っています。
- 祖父の場合
- 祖母の場合
- 父の場合
- 私の希望
祖父の場合
親族でただ一人、自宅の畳の上で死ねた人です。
家族、親類縁者が何日も祖父の周りに詰めて見守っていました。
不謹慎ですが「とても賑やかな死に際」だったと思っています。
毎朝、お世話になっている病院の先生が看護婦さん(その当時の呼び方です。)往診に来てくださっていました。
明治生まれでも比較的身長が高かった思い出があります。体格も良かったです。
ただ、現在でいう「生活習慣病」のデパートのような人でもありました。
私が物心ついたころには既に心臓、腎臓が悪く、途中から糖尿病にもなりました。
脳梗塞で右半身に麻痺が残っている間に、また脳梗塞を起こして活舌も不明瞭になりました。
明治の人なので父や父の姉妹、兄弟は厳しかったかもしれませんが、孫である私にはとても優しいお爺ちゃんでした。
最初の脳梗塞で倒れた時、小学校から帰ったらうちには誰もいませんでした。
祖父母のどちらもがいないのは「悪い知らせ」と幼い時から経験として分かっていたので、両親の仕事場に電話をして、祖父が入院したことを知りました。
病院に駆けつけた私を見て祖父は「かかい」と言いました。
付き添っていた祖母が「可愛いって言いたいのよ。」と言ってくれました。
脳梗塞で脳の回路の一部が機能不全になっても私のことを覚えていてくれて、「可愛い」と言いたい気持ちの精一杯の言葉が「かかい」でした。
今でも祖父の「かかい」と祖母の「可愛いって行っているのよ。」は対の言葉として深く記憶に刻まれています。
私が中学三年生になる春休みに亡くなりました。
14才の私が考えたことではないですが、「人が老いていく経過」、「食べられなくなり、歩けなくなってから亡くなるまでの経過」を10代の無知な時期に見せてくれたことに今更ながら感謝しています。
「年を取ること」、「老いること」、「食べられなくなり、歩けなくなり、離せなくなること」、「亡くなること」、見送る人達の様々な反応などを一連の出来事として消化、納得できたのが何才ぐらいだったかは覚えていません。
ただ、「死ぬこと」が怖いことではないと思える現在の土台になっているのは確かです。
祖父との思い出はいつか、書いてみようと思っています。
年度末、三月三十一日の午前八時過ぎに亡くなりました。
思い出を一つだけ書きます。
糖尿病になるまでは甘党過ぎるくらい甘党でした。
明治生まれでお砂糖が貴重品だったからかもしれません。
糖尿病になってからは祖母が食事を管理していました。
管理する祖母も大変だったと思います。
時々、ショートケーキを食べるとき、「すこーしだけ食べたい」と左手で「少し」を表現することがありました。
三角の先端からだいたい1センチか1,5センチぐらいを祖父に分けて一緒に食べました。
数回に一回か、十回に一回ぐらいで祖父が食べたがりましたが、ストイックな食生活を絶えられたのは、祖父が生きた時代背景と、祖母が祖父に合わせて食事を作っていたことで、家族と違う食事を食べることなく過ごせたことが大きいと思っています。
いわゆる「病人食」のような見た目では無かったことが祖父にとってストレスを感じなくて済んだのではないかと思っています。
私が子供の頃は今ほどの豊かさの片鱗は時々垣間見える程度の時代でした。
祖母の場合
祖母は94才で亡くなりました。
生きていたら今年で100才でした。
大正10年生まれ。
祖母は自分のことを多くは語りませんでしたが、私が勝手に思い込んでいたことや、父が亡くなった時の手続きの最中に祖母について知ったことがありました。
祖母の生い立ちはいつか、分かる範囲で書きたいと思っています。
祖父が亡くなったとき、祖母は58才でした。
祖父との年の差は16才。
祖父の二番目の奥さんで、私との血縁はありませんが。実の娘のように可愛がってくれました。
祖父母が私を溺愛するあまり、周りの大人が「あきちゃん甘やかされて、甘やかされて・・・」と何度も言われたことがありました。
祖父母にとって内孫で初孫であり、目に入れても痛くないと思えるほどだったと周りから言われて育ちました。
私が幼いころは祖母は着物で過ごしていた人でしたが、女性の体調の変化が激しすぎて喘息や体調不良に振り回される日々になりました。
その頃から、「着物は苦しい」と言ってお洋服で過ごすことが多くなりました。
今でもわからないことですが、祖母は「あと五年は生きたい。」と言うことが時々ありました。
私が小学生の頃には言っていました。
区切りの五年が終わるころにまた、「あと五年は生きたい」と言っていた記憶があります。
その気持ちの中には「祖父より先には死ねない」という気持ちが大きいことは察せられました。
それ以外に何かあるとすれば、私の成長だったかもしれません。
祖父との間に子供は無く、孫の私を溺愛していたことを考えれば、私が成人するのを見届けたい気持ちは強かったのではないかと勝手に想像しています。
ご先祖様を大切にしながら、祖父の介護と、祖母自身の体調の変化を受け入れつつ94才まで生きたことは驚嘆に値します。
祖父が亡くなって暫くは、叔母夫婦と一緒に住んでいましたがその後は独居老人として30年以上を過ごしました。
その間一度も「誰かと生活したい。」とか、「誰かに面倒を見てほしい。」と言ったことはないと記憶しています。
晩年の祖母に一番近くで接していたのは、従妹の二番目の姉家族でした。
とてもお世話になりました。
私がしなければならないこと、したほうが良いと思うことをすべて肩代わりしてもらいました。
義理の兄にもとても感謝しています。
祖母のエピソードを一つ書きます。
祖父の亡くなる直前に一番介護したのはその従妹の二番目の姉でした。まだ、結婚前でした。
中学生の私は、出来る範囲の「お手伝い」をしただけです。
祖母は従妹の二番目の姉と私に向かって、「あなたたち二人は、何も後悔することな無いのよ。お爺ちゃんのために介護をやり切ったのだから、何かしてあげたかったと思う必要は無いのよ。」と言ってくれました。
従妹の二番目の姉がどう受け止めたのかは分かりません。
私は、祖母に「十分やり切ったのだから。」と言われたような気がしました。後悔しなくて良い呪文を掛けてもらったのだと思っています。
祖母はどんな気持ちだったのか。
今となっては聞くことはできません。
父の場合
父は74才で亡くなりました。
胃瘻の途中で吐き戻してしまい誤嚥性肺炎になり、一か月後に亡くなりました。
喪主は私でした。
父はとても我がままで勝手な人でしたが、私にとっては娘を守りたい気持ちが不器用に空回りする人だったと今では思っています。
小学四年生の時に「あきの顔がむくんでいる」といち早く気づいてくれたのが父と祖母でした。
腎炎で約半年入院することになりましたが、それまでの私は扁桃腺は腫れやすいものの病気とは無煙に過ごしていました。
祖父母も父も本当は男の子を望んでいたのは十分理解しています。
男の子に恵まれなくても私が跡継ぎであると周りの大人は思っていましたし、祖父母も父も「将来はお婿さんを迎えて・・・」と言うのが口癖で刷り込まれて育ちました。
父は6人兄弟の4番目で、上は姉が3人でした。
父は待望の長男、家督息子で私以上に甘やかされて育ったのではないかと思っています。
祖父の代から小さな商売をしていて、父を含めて4人兄弟が仕事に関わっていました。
父の一番上の姉に当たる叔母は女学校の先生から家業を継ぐためにお婿さんを迎えて家業に関わっていました。
女学校の先生をしていたくらいなので、優しいさの中にも厳しさのある叔母でした。
父は相当コンプレックスがあったと勝手に想像しています。
家業がありながら、他の事業を立ち上げたり、他の方が立ち上げる事業に関わったりしていました。
家業があるから自由になる資産があることに気付けなかった人でもあります。
社会的は側面での評価は「家督としてはいかがなものか?」と思われていたと思っています。
父としての側面は、全く違います。
私が腎炎になった以降、病気や怪我を繰り返した私に「跡継ぎ」を求める気持ちは薄くなっていきました。
しかし、一人でも生きていけるようになってほしいと思っていた「ふし」もあります。
高校受験の時に突然、選択肢になかった学校の受験を進めてきたことからもそれは受け取れます。
父には姉が三人いるにも関わらず、娘との距離感には手を焼いていたのではないかと思っています。
紆余曲折あり、施設で過ごすことになりました。
私は一度しか父のお見舞いに生きませんでした。
私なりの理由はありますが、ここでは割愛します。
父が誤嚥性肺炎で危篤状態になったときに病院の先生から連絡を頂きました。
単刀直入に書くと「延命するかしないかを決めてほしい」という内容でした。
入院したことは知っていたものの「延命するかしないか」を即答できるはずもなく、「親族に相談させてほしい」と応えましたが、先生は「これは一番近い娘さんが決めて良いことだから。」と回答を求められました。
父がどのように考えていたかは確認していませんでした。
延命しても私が介護できないことも事実でした。
私は「延命しなくても良いです。」とお返事しました。
父は美味しいものを食べるのが生き甲斐のように好きな物を食べていました。
糖尿病になってからは食事制限をして、自分でインシュリン注射をしていました。
私は「食事にも我儘なあの父が食事制限している。」ことがとても不憫でした。
私が父の延命の決定権を持つことになるとは想像していませんでしたが、好きな物を食べられないのに生きているのは切なく悲しいことだと今でも思っています。
父について一つ書きます。
施設で過ごしていて文字が掛けなくなった時に、施設の方の代筆で父から手紙を貰いました。
私のお誕生月でした。
代筆してくださった方のお手紙も一緒に送られてきました。
父が施設で過ごしている間のコミュニケーションはほぼ手紙でした。
私が一方的に書き送っていましたが、一度だけの返信となりました。
リアル・父の詫び状と言えるかもしれません。
父が言葉や文字でも誰かに謝ったと聞いたことはありません。
もちろん、私の知らないところで頭を下げていたことは何度もあると思っています。
ただ、晩年に家族の誰かに謝ったことは無いかもしれません。
私の勝手な判断で延命しませんでしたが、父は私を恨んでいないと思いたいです。
私の希望
近親者三人の「死に至る道筋」を見ていて、私が考えてきたことは、食べられなくなったり、意思表示が出来なくなったら延命しないで死を迎えたいと強く望むようになっています。
祖父の時は14才でまだ言語化できませんでしたが、祖母、父の「病院での死」をずっと考え続けています。
今は死ぬことが怖いとは思っていません。
今はの際になったときにジタバタするかもしれませんが、できれば冷静でいたいと思っています。
27日はコロナワクチンの一回目の接種予定日です。
三週間後に二度目の予定です。
仮に、副反応が出た時は延命しないで欲しいとお願いしているのですが、お願いされた方は気持ちが重いのも理解しています。
しかし、コルトとガラちゃんのことを考えると、うっかり副反応も起こしていられません。
体の原価償却が加速している現実を実感していますが、コルトとガラちゃんを守る気持ちが強いので、副反応を軽微に乗り越えたいと考えています。
私は痛い、苦しいと言いながらも長生きするのではないかと自分自身について予想しています。
大切な人たちの病気を受け入れやすくなるために私の10代は病気と怪我で過ごしたような気がします。
食事制限、絶食、怪我の後遺症などを10代で経験しているので、50才を超えてからの食物アレルギーでもあまりストレスを感じないのではないかと自己分析しています。
小学生の高学年からお台所のお手伝いをしたり、お菓子を作ったりしたこともお料理の楽しさをしる土台になっています。
私は自分の意思で口から物をたべられなくなったら、102才の女性のように枯れるようにひっそりと一生を終えたいと切に思っています。